建築士になるまでに

建築士になるまでに

「けんちく」のプロを目指して

行政が行う「まちづくり」はなぜ必ず失敗するのか

 

皆さん、こんにちは。mitsukiです。

 

まちづくりについて考える日々が続きます。

 

「まちづくり」ってなんだろう。

何を持って成功と言えるのだろう。

人口減少はどうすれば止められるのだろう。

なんで平仮名なんだろう。

 

ここまで考えたところであることに気付きました。

実際のところ「みんな真剣には考えたくないんだろうな」と。

 

ちゃんとは考えてるけど、お金のこと、もっと言えば利益のことまでは考えたくない。

比じゃないくらい本気にならなければいけないから

 

だから「まちづくり」というどこかフワフワした言葉でボカそうとしている。

名は体を表わすとはまさにこのことですね。

 

そんな「まちづくり」を一刀両断!

 

まちづくりと公共性

 

まちづくりと共に引き合いに出される「公共性」という言葉。便利な言葉です。

 

「公共性」というワードが付くだけでみんなが納得したような気分になれる。誰も傷付けていない。だからみんなに受け入れられる。

 

しかし考えてもみて下さい。


全員が全員を満足させるような公共性なんて実在するのでしょうか。 

私は決してないと思います。


そう考える理由が身近なところにありました。「公園」です。

 

公園の現状

 

いま日本の公園は深刻な事態になっています。

こんな詩を見つけました。

 

昔の広場は遊具も何もなかったが、なんでもできた。

 

子供の遊び場が欲しいとの声が上がった。
広場は整地され公園になり、子供が遊ぶ場所になった。

 

危ない遊びがあるとの声が上がった。
危ない遊具やボールを使った遊びは禁止され、安全な遊びだけが許される場所になった。

 

騒音がうるさいとの声が上がった。
公園ではしゃぐことは制限され、静かな行為だけが許される場所になった。

 

公園には誰もいなくなった。 

 

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公園あるあるですね。

「大人」が排除され、「危ないもの」が排除され、終いには「行為」が排除された。

 

そんな公園で何をして遊べばいいのでしょう。何もできやしません。
公園から人がいなくなるのは自明です。

 

公共性なんて糞食らえ

 


全員が全員を納得させるような答えなんて世の中にありはしません。

 

先ほどの公園の例をとってもそうですし、例えば戦争もそうです。

 

誰かにとっての正義は、誰かにとっての悪。
誰かにとっての「楽しい」は、別の誰かにとっては「退屈」だったりします。

 

そう考えると公共性は人数が増えるほど凡庸になると言えます。

 

「じゃあ市民の声なんて無視すればいいじゃん。」

 

そう思いますよね。

でも行政には(今のところ)それができない。

 

立場上、みんなの声を聞き入れなければならないから。

 

そして市民の最大公約数的な意見に従事した結果、特徴のない全国どこにでもあるようなつまらない箱モノを作るんです。

 

免れない赤字体質

 

私は行政が行うまちづくりが失敗するもう一つの要因があると考えています。

それは利益を気にしなくても決して咎められない点です。

 

本来あってはならない筈ですけどね。

 

箱モノを作り、収益に見合っていない管理費・維持費という赤字を垂れ流しているあちこちの箱モノ。その赤字について一体誰が責任を取っているのでしょう。

 

仮に会社に置き換えたら大きな不良債権です。

会社を傾ける倒産ものの由々しき事態です。

 

でも行政は涼しい顔してますよね。絶対潰れませんから

 

行政にとってのまちづくりなんて、予算をキリよく使ってもらえればそれで良いんです。 

  

行政と民間の狭間で

 

ここまで考えてみた所で、公共性の化身である行政がまちづくりを行っても失敗するのは必然だということがわかります。

 

行政主導のカスみたいな建築コンペをやっている暇があるなら、その税金を児童手当に当てればいい。
お願いだから地域のために何もしないでくれと思うばかりです。

 

そもそもあの建築コンペ。ただの売名行為ですよ。

あれを実務と捉え超過分の残業代を支給している事務所がどれほどあるのでしょうか。

(愚痴が出てきました。これもまた別の機会に。)

 

  

では一体誰が「まちづくり」をやるのか。

 

私なりに考えた答えは民間です。
突き詰めれば、個人です。

 

どこかの誰かが、主導権とそれに伴うリスクを取るしかないんです。

リスクを取った分、その人の好きなように地域に貢献すればいいんです。市民の声なんて無視してOK

 

利益が出そうなことをガシガシやって、お金を回すことを第一に掲げる。
そこにその事業主が考えるテイストを少しプラスするだけでいいんです。

 

音楽が好きだ。ライブハウスでも作るか。

近所でバスケがしたいな。コートでも作るか。

 

上の例は寒いくらい平凡なアイディアですが、第一に掲げるべきは「稼ぐこと」。

「芸術性」より「お金」です。

 

そもそも稼げるってことは市場のニーズを捉えてる何よりの証です。

ふわふわした芸術性議論よりよっぽど信用できます。

 

(話は逸れますが、建築家を自称する人間達はやれ「空間だ!おおらかだ!ぬくもりだ!」なんて、聞いてて小っ恥ずかしくなるような言葉を連呼してないで、とりあえず稼ぎましょう。 

頭の中のアカデミックな理論を形にしたところで、常人にはほぼ理解されていません。)

 
それを踏まえると、現状のまちづくりに一番欠けていて、尚且つ一番重要なことは「継続させること」だと思います。

 

稼いで、地域のお金を回して、継続すること。

 

民間にとっての赤字体質は死活問題ですから、それはそれは必死になります

たとえ赤字でも税金で誤魔化しがきく行政が手を出す分野ではなかったんです。まちづくりは。

 

継続が歴史を作り、歴史はいずれ文化に昇華します。

芸術的な価値や歴史的評価はあとからいくらでも付いてくるでしょう。

 

ここまで書いたところで「そんな夢物語的なw」と思うじゃないですか。

しかしこれを実現した実例があるんです。

 

名前はオガール紫波

岩手県紫波町で、いま全国的にもっとも注目されているまちづくりの事例です。

 

(行政も一枚噛んでいるというから驚きです。

私のこの記事は初っ端から打ち崩されました。|||Orz。)

 

このオガール紫波については別の機会に取り上げます。

 

おわりに

 

いつもご覧になっていだたきありがとうございます。

 

記事でも少し触れましたが、前々から疑問に思っていることがあります。

建築ってそんな高尚なものか?というものです。

 

建築なんて突き詰めればコンクリートです。

そんな道端にも転がってそうな物質に、果たして神は宿るのでしょうか。芸術性はあるのでしょうか。

有神論者が見たら発狂しそうですけど。汗

 

建築業界のこの得体の知れない気持ち悪さもまた記事にしたいと思います。

 

それでは!