建築士になるまでに

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「けんちく」のプロを目指して

「まちづくり」の気持ち悪さ

皆さん、こんにちは。mitsukiです。

「まちづくり」について考えてみました。長いですが、是非ご一読を。

  

 

現状の「まちづくり」

 

都市部への一極集中と地方衰退が叫ばれて久しく、地方創生を意味する「まちづくり」が昨今の行政における重要なキーワードであることに疑いの余地はない。その反面「まちづくり」という言葉が乱用され、実態が見えづらくなっている面もあるように思う。「まちづくり」政策を実施する行政、「まちづくり」補助金に群がるコンサルタント、「まちづくり」を批評するコメンテーター、「まちづくり」のためのハウツー本、そして当記事のような「まちづくり」を題材にするブログ記事などで世間はいつも賑わっている。にも関わらず実態が掴めない。何をしているかわからない。何でもかんでも「まちづくり」という括りにされてしまっている。そのモヤモヤ感も手伝ってこの「まちづくり」という言葉を聞くたびにある種のこそばゆさ・得体の知れなさを感じてしまう。要は非常に「気持ち悪い」のだ。

 

まず第一にまちづくりにおける成功とは何なのか。「まち」を「つくる」と言っても既に町は存在しているわけで、改めて定義し直すとすればそれはその地域に住む人々が「僕の住んでいる町ってイケてる!」と実感することだと思う。景気と似たようなもので、人はイケてると感じる場所に何となく引き寄せられ、そこで生活や消費が生まれ、その地域そのものが潤う。これこそが「まちづくり」における成功だと言える。

 

そういう意味で全国津々浦々から人を吸い寄せている東京は圧倒的に「まちづくり」に成功している。私を含め「東京なんて住み心地が悪い!」と逆張りしている人は多いが、良いもの・羨ましいものを素直に称賛し、そこに行きたいという人々は一定数いるもので、逆張りしている時点で東京に負けていることを自覚しなければならない。

 

では一方で、衰退が問題となっている地方はどうだろうか。まず地方のまちづくりの代表的(典型的)なパターンを紹介しよう。生まれた土地をこよなく愛する若者が一念発起し、行政と連携してイベントを催す。ワークショップや物産展などがよくある例だ。イベント自体は成功するものの、残念ながらその場限りの一時的なものに終わってしまい、事業としての継続性もないまま失敗の烙印を押されるというパターン。もちろん収支はマイナスだ。

 

こういったイベントもので集客を促すことは、その地域に足を運んでもらうといった「賑わい創出」の点では確かに有効かもしれないが、継続性という面から言えば疑問符がつく。イベントを定期的に開催するにはお金も労力も多分に必要だからだ。イベントが風化しない程度の頻度で開催することも一苦労である。事実、ほとんどの自治体でイベントは一過性の尻すぼみに終わっている。

 

他にも、さびれた商店街や空き家を活用したアート展示会などもよくあるパターンだが、そもそも芸術的教養の乏しい日本で一体どれほどの人がその価値を理解できるのだろう。最初は物珍しさで住民の集客もある程度は達成できるだろうが、これも事業として継続性があるとは思えない。決まり文句のように「若手クリエイターを集めて~」と謳ってはいるが、いま一度冷静になってなぜそれが「まちづくり」に繋がるのか考え直した方がいい。お情けで払う投げ銭ほど続かないものはない。

 

結論から先に言えば、私が「気持ち悪い」と感じた要因はここにある。つまり「まちづくり」という名目で行われている事業の多くが、それは違うだろと思わざるを得ないことばかりなのだ。ワークショップ然り、アート展示会然り、到底「まちづくり」に繋がっているとは思えない。なのでここでは敢えてそれらを全否定したい。そしてそれを踏まえた上で真の「まちづくり」について考えてみる。

 

 

真の「まちづくり」

 

「まちづくり」において最も重要なことは、住民に継続して消費を生んでもらうサイクルを作ることにあり、手っ取り早い話がその地域に住んでもらうこと、つまり移住が挙げられる。ひと1人が住めば生活が始まり、生活が始まれば消費が生まれ、消費が生まれれば地域経済に還元される。しかし言うは易しで、ひと1人の移住を実現することはそう容易くない。そこでまずは現在進行系でその地域に住んでいる住民(以下:現住民)の生活について考えてみたい。

 

そもそも当事者である現住民がイケてないと感じている地域に、わざわざ外部から引っ越してくる物好きは少ない。こうした意識は伝播するもので、東京が人を惹き付けてやまないのは「ここにいると何かありそう」だと潜在的に思わせる何かがあるからだろう。観光やオープンキャンパスで東京を訪れた際、何ならテレビ画面でもいい。活き活きしている町の光景を目にした結果、東京に住むことを決めた人は少なからずいるのではないか。そう考えると現住民の日々の生活を充実させることが、巡り巡って「まちづくり」に繋がると踏んだ。

 

ここで仮定の話だが、おそらく余程充実した仕事人生を送っている人を除いて、大人になって日常が楽しいと思えている人はそんなに多くないのではないか。いまこの記事を読んでくださっている方は、その大半が大人であるが、皆様はどうだろう。毎日楽しいですか?

 

大人になってやることばかりが増え、独身だろうが家庭人だろうがお先は真っ暗で、就職もままならず、そのうえ国からは75歳まで働けと言われる始末である。この義務感ばかりが漂う現代は本当に息苦しい。そんな大人を見て育った子ども達が将来への希望を持てないのも当然のように思えるし、私はこれらの問題が「大人の日々の娯楽が無いこと」に端を発していると考える。要はつまらなそうなのだ。我々は税金を納めるためだけに生まれてきたのではない。

 

大人の娯楽と言うといやらしい表現だが、要は大人のストレス発散の場だ。ここからは個人的な意見が多分に入った内容になるので、あまり参考にはならないだろうが耐えて読んでほしい。

 

 

スポーツで「まちづくり」

 

私はスポーツが大好きである。それも「見るスポーツ」よりも「するスポーツ」が特に好きだ。スポーツというと大げさだが、要は身体を動かしたいという欲求である。これは人間誰しもそうだと思うが、身体を動かすことは本能的に楽しい。特にボールを使ったスポーツなど簡易な上にゲーム性があり、何だって好きである。

 

しかし現代の大人がひとたびスポーツをしようとするとどうだろう。公園でボールを使った遊びは禁止されているし、かと言って大人がひとりで学校に入れば不法侵入者だ。大人がスポーツをしたいと思い立っても行き場がないのが現状である。最終的に行き着く先はマラソンかスポーツジムぐらいなもので、昨今この両者が旺盛なのは、スポーツをしたい人にとって他に受け皿がないからだと思っている。身体を動かしたくても動かせないのだ。大人になったその日から、人畜無害な人間になることを社会から強制されている気さえする。

 

マラソンやジムを否定するわけではないが、私はもっと軽い気持ちで身体を動かしたい。走るだけじゃなく色々な動きをしたい。そして出来ることならみんなで楽しみたい。マラソンやジムの一角で各々が分散的にスポーツをするのではなく、集団的に、だ。思い立った時ふらッと出かけて「そこ」に行き、誰もいなければひとりボールと戯れて、誰かが来れば1 on 1をするのも良い、人が大勢集まればゲームをするのも良い、そんな場所が欲しい。要はストリートスポーツだ。自分の住んでいる町の一角にこんなスペースが欲しいと常日頃から思っている。

 

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意味がない・必要がない・夢物語だと思う人もいるかもしれない。世の中にはスポーツに全く興味がない人がいることも知っている。そもそも私がこういった「場所」が欲しいと思うのは、ただ私自身が幼少期からスポーツをしていたからという理由だけなのかもしれない。しかし、これはただのスポーツ好きの妄言ではない。この理想論を支えてくれる根拠が「まちづくり」と「スポーツ」との関係性にあるのだ。この両者は非常に相性が良い。その理由は以下の通り。

 

スポーツは

・お金がかからない(身体が資本)

・健康になれる

・言葉がいらない(国境を超える)

・老若男女が参加できる

・複数の人間が同時に楽しめる

・賑わいが生まれる

・流行に左右されない

 

どうだろう。スポーツが持っている要素は「まちづくりが必要としていること」に非常にマッチしていると言えないだろうか。上のリストを「まちづくりに必要なこと」と差し替えても何ら違和感はない。スポーツで人々が楽しむことが、イコールその地域のまちづくりに直結するのだ。一石二鳥どころの話ではない。三鳥も四鳥もメリットがある。これを生かさない手はない。

 

また、先ほど私は「するスポーツ」と「見るスポーツ」という言葉を使ったが、スポーツは観戦する楽しみがあるというのも大きな魅力のひとつだ。上手い下手に関わらず、一所懸命な姿は人を感動させるし、応援もしたくなる。通りすがりの人も思わず足を止めてしまう魅力がある。この「人が立ち止まる」というのが肝心で、人の流れ、つまり導線を捉えることは商売における重要な要素である。導線を作ることができればその地域での商売の機運も高まるし、周囲に飲食店や関連施設を誘致するきっかけにもなる。考えれば考えるほどメリットしか思い浮かばない。 

 

私は理想論をかざすのが得意だが、こればかりは生きているうちに実現したい。何より世間ではいよいよ土地が余ってきたし、検索すれば借り手の見つからない土地が多数出てくる。年間の固定資産税さえ払えば、場所を貸してくれるオーナーが見つかる気がしないでもない。加えて地方の地価が安いことは東京と比べて圧倒的に強みとなる部分であり、地方が東京と違った土俵で戦うことができる。

 

 

まとめ

 

現状の「まちづくり」は大なり小なり、特定個人が「箱モノ」の域を出ていないものしか作れていないことに問題があると思う。それが飲食店であれ娯楽施設であれ、流行り廃りには逆らえないし、やがては陳腐化してしまう。東京もご多分に漏れず例外ではないが、彼らには常に新しいもの・流行りのものを提供し続けられる体力がある。だから人を掴んで離さないし、この先も人とお金が集中し続ける限りこの流れは変わらないだろう。それこそ地方とは戦っている土俵が違うのだ。

 

何より、究極的には人は押し付けられた幸せには余程のことが無い限り迎合したくないのだと思う。「こんな良いものを作りました。これからはこの枠組みの中で楽しんでね♡」なんて言われれば誰だって反抗したくなる。逆だ。ボトムアップに、住民が面白いと感じることから「まちづくり」を始めることが大事だと思う。

 

私は流行り廃りに左右されない数少ない存在がスポーツだと思うし、生涯スポーツという言葉があるように、人が一生をかけて情熱を注ぐだけの価値があると思っている。それはプロスポーツ選手になれるから、という意味では決してなく、スポーツを通して健康増進やコミュニティの形成などが果たせると考えるからだ。「地域の絆」というと堅苦しいが、単純に自分が楽しいからそこに居る、それだけで十分ではないだろうか。

 

 

おわりに

 

いつもご覧になっていだたきありがとうございます。 

 

くどいですが、最後にひとつだけ。

 

何やら日本では経験者しかスポーツをしてはいけないような風潮がありますが、これもスポーツをする場が絶対的に少ないことが原因ですよね。それとも部活が軍隊の延長だからでしょうか。部活を途中で変えることはご法度ですし、なぜか失敗の烙印を押されます。これが不思議でしょうがないです。

 

部活ではなく地域がスポーツの主体になれば、誰だって好きなスポーツを、好きな年代で楽しむことができると思うんです。そうすれば子どもの可能性はもっと広がります。 

 

これから先、AIや自動化で仕事も減ることでしょう。残業も難しい時代になりました。

大人は大人で暇つぶしを見つけないと、定時終わりにすることが無くなりそうですね。

 

それでは!